戦争に寄せて思う事

怨恨のない、後腐れ無き戦争を指向したとしても、仲間を撃つことはできまい。仲間と撃ち合わず互いに協力しあうために同盟を結ぶのだろう。仲間を撃たない者と接近し、仲間を撃つ者と距離を取ってしまう。これは自然な成り行きだ。そしてそれは敵対の芽生えに他ならない。自身はもちろんのこと、仲間を撃たれたり殺された記憶は、心の中に深く痕を残す。

口で怨恨の排除を謳うのはたやすいが、行動はなかなかそれに伴いはしない。自身に怨恨はなくても、仲間には怨恨がある場合もありうる。そして(たとえその場限りだったとしても)仲間とは協力しあうもの。そのつもりはなくても、逆の立場から見ると「敵の味方は敵」に見えてしまうものだ。知らず知らずのうちに「敵の一味」とみなされてしまう。どの一味(勢力)につくかは各人の自由。朱に交われば赤くなる・・・誰と行動を共にするかによって、交友関係は自ずと変わってゆくことだろう・・・。

無防備な見学者に斬りつける無法者もいれば、布告するわけでもないのに防衛クランに攻撃を仕掛ける者もいる。無法者を手助けする者もいる。確かに戦場は殺し合いの場。そこに立つ者は当然、いつ斬られてもおかしくはない。しかしモラルなき戦闘は、自己満足の過剰な押し付け、エゴの放射に他ならない。そしてまた、他人の悲しむさま苦しむ様子を見て喜ぶ輩は、もはや人にあらず。餓鬼の如しである。楽しむためにやっているゲームなのに、他人の楽しみを故意に奪うことに楽しみを見出すというのは、人として恥ずべきことだ。可能ならば思い直して、もっと別の方向に楽しみを見出して欲しいが。。。そういう輩とは距離をおくべきだ。どのような修辞も言い訳も、実際に人々が受けた悲しみや苦しみをを覆い尽くすことはできない。そういう輩と接近すれば・・・それは自身もそういう連中の仲間になったとみなされることだろう。

適度な敵対は、むしろ刺激があってよいかもしれないが、しかし、自身と仲間を守っていくことは即ち、敵対と怨恨をエスカレートさせていくことにもなりかねない。。。

私にできることは、仲間を撃つものを撃ち、モラルを尊重した行動をとるよう努める事・・・かな。